novel-hari
【錦上添花】
「御」
「ご」
「武運」
「ぶーん」
愛くるしいちづるの手に掛かれば、勇ましい武士を見送るこの言葉も、小さな虫が飛ぶ羽音のように軽くなる。
「ぶーんではありません。『武運』……ぶ“う”ん、です」
「ぶ う ん」
「では最初から続けて言ってみて下さい。『御武運をお祈り申し上げます』……はい、どうぞ」
「えっと、ごぶうん…を、お祈り申し上げます!」
「……まぁ、この程度言えるのであれば問題なく伝わるでしょう」
「はい!」
多少、出だしの肝心な部分が、女人の色気を振り撒くような『ウッフン』に聞こえなくもない。
表情ひとつ変えずに応じている山南とは対照的に、横で聞いていた島田の肩が、笑いを堪えぷるぷる小刻みに震えている。
初めて耳にする言葉にちづるの首がこてりと傾いた。
「この言葉はどういう意味ですか?」
「戦いに行く人に対し、『頑張って下さい』や『勝利を信じています』というような意味にあたります」
「戦い……」
これを言われた人間が今から怪我をしてしまうのかと、ちづるの耳がしょんぼり垂れる。
男は時に戦わなければならない事もあると頭では理解しているが、やっぱり皆にはいつも笑っていてほしい。
「ま、まぁ今回は拳骨か、飯抜き程度だと思いますよ」
心根の優しいちづるならではな胸の痛みを理解した島田が、取り成すように口を挟む。
「本当ですか?」
「ええ。そうですよね、山南さん」
「困難にも果敢に立ち向かう勇気を与える言葉……分かりますね?」
「はい!」
山南にニコリと微笑まれ、ちづるは元気に手を挙げた。
◇◆◇
そもそも、どうしてこんな練習をしているのかと振り返れば、ことの始まりは今日の昼。
『島田、新八はどこに行った?』
『永倉組長ですか?申し訳ありません、今稽古場から出てきたばかりで……』
『なるほどな。稽古場にもいなかった、と』
『あっ、い、いえ、その……』
『……あいつが戻ったら俺の部屋まで来るよう言っておけ』
怒りの矛先が向いたのは、指導を他人任せにしたこと然り。
自分の呼び出しを忘れるという失態もまた然り。
まだ日の高いうちから島原に繰り出してしまった永倉に、土方の堪忍袋の緒がぷちんと切れた。
困ったのは、土方に言伝を頼まれてしまった島田である。
自分の属する組の組長である永倉を、彼は彼なりに尊敬しているだけに、この言伝は非常に伝えにくい。
土方の所へ行けば、十中八九罰せられる。
それが分かっていて行けというも言いづらいが、土方の言伝も無視できない。
いっそ自分も全てを忘却の彼方へ投げ飛ばし、甘味処でヤケ食いといきたいところ。
『はぁ……』
『島田さん、何かあったんですか?』
『ああ、ちづるさんですか。大丈夫ですよ、ちょっと考え事をしていただけで……』
『だいぶお困りのようですね』
『さ、山南さん……』
『ここはひとつ、彼女の力を借りてみてはいかがですか?』
『……え?』
『ちづるさん、少し島田君のお手伝いをして戴けますか?』
『はい!』
土方の部屋に行くようにと伝えるだけであれば、ちづるでも十分伝えられる。
むしろ島田が後ろめたい気持ちを抱えて前に立てば、永倉は警戒してまた外に出て行ってしまうかもしれない。
問題は、いかに気分良く土方のもとに送り出すか。
山南による『御武運〜』の練習は、このような理由から始められていた。
「ごぶ、うんを
初めて聞く言葉を、ちづるは本番でしくじらないよう自主練習を続けている。
これを言われた後の永倉がどんな目に遭うか知る由もなく、何度も何度も繰り返す。
「ごぶうんをお祈り申し上げます!」
「大変結構です」
大人が見れば背中に汗が流れ落ちる山南の微笑みも、ちづるにとってはこの上ないご褒美。
「この調子で本番もお願いしますね」
「はい!」
きらきらと目を輝かせ、隠しきれない喜びを耳を撫でることで何とか抑える。
「……帰ってきたようですね」
ふいに玄関から複数の人間の話し声が、風に乗って縁側に立つ彼らのもとに届けられた。
「では。練習した通りやれば大丈夫ですよ。私はこの襖の陰で見ていますからね」
「はい!」
「さ、山南さん、俺はどうすれば……」
「そうですね……では炊事場に行って彼女のおやつを用意してあげてください」
「はい、ありがとうございます……っ」
この場に立ち会わず済むよう取り計らってくれた山南には、監察の仕事で報いよう。
永倉には
「ちづるさん、言い終わったら炊事場まで来てくださいね」
「はい!」
こうして、島田は炊事場へ去り、山南は襖の陰に隠れ。
それぞれが場所を移したところで、いよいよ幕が上げられた。
◆
「よぉ、ちづるちゃん。こんな所に独りで突っ立ってどうした?」
「おかえりなさい!永倉さんを待ってました!」
「俺?」
「はい、永倉さんが帰ってきたらすぐ来てくださいって伝言があって……」
「平助か?」
「違います。えっと……ごぶうん……を、お祈り申し上げます、です!」
「……へ?」
「えっと……」
さっきはあんなに上手に言えたのに。
上手く伝えられないもどかしさで、ちづるの耳が萎れたように垂れていく。
「ちづるちゃん」
「?」
ちづるが俯きかけた顔を上げると、目の前に永倉の優しい笑顔が待っていた。
「悪い!ちづるちゃんが俺を待っていてくれたのが嬉しくて、最初の方聞き逃しちまってよ」
「そうなんですか?」
「ああ。だから今の言葉、もう一回俺に言ってくれるか?」
「はい!」
こんな微笑ましい光景、島田が見たらやっぱりこの作戦自分には出来ないと、声を上げて泣いてしまうかもしれない。
案外島田を炊事場にやった山南の思惑はここにあるやもしれず
「えっと、ごぶうんを、お祈り申し上げます!」
「“御武運”か!いい言葉を言ってくれるじゃねぇか!」
愛らしいちづるから贈られるとっておきの言葉に、永倉は満面の笑顔で立ち上がった。
「で、どこに行けって?」
「ここを真っ直ぐ行った一番奥の部屋です」
「なるほどな。ここを真っ直ぐ行った一番奥うぅぅ?!ち、ちづるちゃん、ちょい待った!!」
自分がすっぽかした呼び出しから、事ここに至るまでの何もかもを悟った永倉が我に返った時は既に遅し。
「ごぶうんをお祈り申し上げまーす!」
今までで一番上手に言えたひと言をその場に残し、ちづるはおやつの待つ炊事場へピューッとそのまま一直線。
「すみませんね、たまたま通りがかりに聞いてしまって。土方君の所へ行かれるのですか?」
突如襖の陰から音も立てずに現れた山南に、玄関へと続く退路を断たれ。
「ぬおぉぉ〜っっ!」
こうなると、永倉に残された道はただひとつ。
すごすごと土方の部屋に向かう彼の姿は、その日夕飯の時刻になっても、広間に現れる事はついになかった。
【 おしまい 】
錦上添花:良いものの上に更に良いものを重ねること
謹慎のとけた永倉さんを出迎えるのは、何も知らないちづるの無邪気な笑顔だったりするんだと思います(ノω`*)
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